さて、だいぶ間が空きましたが前回の続きです。
キャンパスライフをエンジョイする19歳
はじめは「そ、卒業したらすぐ地元に帰るんだから!!!!福岡怖い!!(泣)」みたいな感じで田舎からでてきた私でしたが、住めば都。寮住まいだったこともあり、友達もすぐに出来て、サークルにも入って、楽しい学生生活がスタートしました。
志や趣味が同じ仲間って素晴らしいですね。大変居心地がよかったです。それはもうものすごくよかったです。
勉強もとにかくがんばりました。
授業受けまくりの単位取りまくりで2年間で大学出られそうなぐらいの単位数を取りました。
それはもう大学生とは思えない授業の詰め込みっぷり。
ホームページ作りも、設備、環境ともにものすごーく整っていたので、今まで使ったこともなかったAdobeのソフトをはじめてさわったりして勉強しました。ちなみに引き続きほぼ独学です。
なんとか一通りできるようになってきたかなーーーという頃、
自分とこの研究室の教授が短大のホームページの更新を手伝わせてくれて、
はじめて自分のサイト以外のものを作ったのもこのときでした。
当時はあれで必死に頑張っていた…それなりによくできた♪と思っていたのですが、
今考えれば、技術レベルもものすごく低い。それはもうびっくりするぐらい。
絶望の就職氷河期20歳
短大なのであっという間の2年間。
2年生になれば就職活動開始です。
ただ、当時も今ほどではありませんが 就 職 氷 河 期 ま っ た だ 中 。
WEBデザイナーや広告デザイナーなど、憧れていた職種は1人の募集に何百人の応募者がいたりと、現実の厳しさを目の当たりにしたのです。
さらに短大卒であるという理由で受けられない企業もたくさんありました。
わたしたちに仕事を選ぶ権利はないのか…?と絶望したことも何度もあります。
なぜこんなにがんばっているのに…
4年生大学に行くべきだったのか…?
美大に行ってたらまた違ったのか…?
自分の努力不足がすべての原因であるにもかかわらず、
すべてを環境のせいにしようとしていましたw
甘いね、考え方が超甘い。
まぁ、20歳そこそこの私にはそれがわかっていなかったとです。
それに気がついていないから、
落ちては受け、落ちては受け…
というかね、そりゃあ落ちるだろ、って感じなんですよ。
だってみせられそうな作品がほとんどないんですもの。
致命的。
やっと内定!!!!しかし…
そんなことを繰り返す日々の中で、
みんなで必死にやっていた卒研が形になり、やっと人に見せられる作品ができました。
理想の家電販売サイトを作る、というものだったのですが、サーバ立てて、カートっぽい仕組みを作って、デザインやコーディング、3DCGで理想の家電のモデリングなど、みんなのやれること、得意なことを集約してすごくがんばって作品が完成しました。
(今見ると想像を絶するしょぼさですが、この当時の私たちにとってはものすごくよくできたものだったんです><)
この辺りから、この作成を通して学んだことや、これからさらにどう勉強していくべきだと思ったのか、など面接でもちゃーんと話せるようになり、
やっと!やっとWEBデザイナーとして内定をもらいました。
現実は厳しかった。
提示していただいたお給料が、一人暮らしを続けていくことがむずかしそうな金額で、今思えばなにもできない私をお金を出して雇ってもらえるだけありがたいという話なのですが…当時の私は実家を離れていて一人暮らし中の身。実家は遠くにありますので、実家から通うということも不可能です。
いくら夢のためとはいえ、両親には絶対に迷惑をかけたくなかったので、とりあえず生きていくことを優先し、夢は泣く泣く断念。
新たな道を模索することになったのです。
目指すは凄腕プログラマー?!
次に選んだ道はプログラマーでした。
前回の記事でも書いていますが、
中学校の時タイムカプセルの中に入れた作文に書いた夢がプログラマーだった私です。
この職業も第二の夢!
やるからには!真剣に!
次の目標に向けてスタートしました。
しかし、もう時期も時期だったので(8月くらいでした)かなりの企業の新卒採用試験が終わっており、就活はネットで「福岡 プログラマー 求人 新卒」なんて探して、サイトに求人情報を出している会社にエントリーするという方法をとりました。
システム会社受験2社目。
面接ではボウリングのハイスコアが206です!という話で部長と盛り上がり、大事な話は特にせず、あぁ…これは絶対受からないだろうな…と思った会社に内定を頂きましたw
なんか…そんなもんですよね!縁って不思議。
ちなみに一次試験の結果、適性試験のほうは良かったらしいのですが、英語の点数がひどかったらしいことを面接のときに聞きました…。え、英語頑張ります。
そして…私はプログラマーになったのでした。
20歳のときでした。
社会人!プログラマーとしての生活
短大でもプログラムの授業は受けてはいたので、大丈夫、やっていける!
こうなったら徹底的にやって目指すはできる女プログラマー!!フフフ!とか夢を見ていたのですが、
業務のプログラムはいままでやってきたそれとはまるでちがう…。
なんというか、言語はわかっても、チームでプログラムを組む、仕事としてプログラムを組む進め方がまったくわかっていない、とう感じで…
知っているつもりだったものは、すべてがなんの役にも立ちませんでした。。
うまくできない自分がくやしくて、帰りながら泣いたことも何度もありました。
でも先輩も上司もやさしくて、本当にしっかり教えていただきました。
ここでみっちり仕込んでいただいたおかげで、プログラムのかけるWEBデザイナーという、今の私のセールスポイントとも言える知識を身につけることができたのでした。
夢、再び。
めっちゃ怒られたり、上司に意見したり、夜中まで残業したり、プログラマという仕事にも、社会人としての生活にも慣れてきて、日々の生活に楽しさ感じる余裕がでてきた頃、ネット界隈ではブログやSNSが流行りはじめて、新しい流れができはじめていました。
すこし気持ちにも時間にも余裕が持てるようになって来ていたので、
JUGEMでブログをはじめて、(今もひっそり続けています)休みの日にはテンプレートをカスタマイズしたり、すこしづつ、昔のようにWEBに触れる時間が多くなっていきました。
高校生の頃、毎日夢中でホームページを作っていた、あの日々が戻ってきた感じでした。
実は入社してすぐ、給料ダウンや残業代0になったりと、いろいろと大変なことになって、短大卒の私のお給料は、結果的には前に書いたWEBデザイナーと し て採用してもらえそうだった会社のお給料とさほど変わらない額になっていました…。
親に仕送りをしながら一人暮らしの生活を維持するのは本当にいっぱい いっぱいで、なかなかお金も貯まらず、必死にコツコツためて…
お金もようやくたまったので、新しいパソコンを買って、快適なパソコンをさわるのが楽しかったこともあって、仕事のあとは夜な夜なブログのテンプレートをカスタマイズしたり、フリー素材の配布サイトをはじめてみたり。
WEBサイトを作ることの楽しさをあらためて感じていました。
人生の転機。
そんなとき、ブログをはじめたのと時期同じくして、誰かの役に立てばいいなーとはじめていた素材やブログのテンプレートの配布がきっかけになって、
FC2ブログで公式テンプレートとして公開しませんか?とお話を頂き、
そのことを通じてWEBのお仕事をしている人たちと知り合うことができたりしました。
環境も、気持ちも、少しずつ、いろんなことが代わりはじめていったのでした。
そして、まためらめらと、あの気持ちが戻ってきたのです。
「私、やっぱりWEBデザイナーになるわ!!!!!!!」
入社から2年と数ヶ月が経過していました。
夢、再び。
以前から上司には「ホームページ作る仕事ありませんか?」「あったらやらせてください!」と相談していて、実際に1・2回やらせていただいたこともあって、上司は理解してくれていました。
上司は、「うちの会社でやらせてあげられなくてごめんな、頑張ってみろ!」と背中を押してくれました。
この日から、私の転職活動がはじまったのです。
22歳の春のことでした。
でまぁ、とんとんと転職できればよかったのですがね、そりゃあ現実はそんなにうまくいかないんですよねーーーー!!!!!!
あきらめたらそこで試合終了だよ!!
と、夢を実現するところまで書くつもりだったのですが力つきてしまったので
まだ夢を実現できてませんが、つづく。
続きかきました。
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